10月16日Vol.003:配信
連載:工場長インタビュー(毎週月・火・水配信)
第1話_三柴康孝 取締役 工場長

えらいとこに・・・

人生は不思議なもの。高3年の時、やりたいことも見つからず、進学するか、就職するか、ぼんやり過ごしていた。ギリギリまで決められずにいると、友人のお父さんが働いている会社を紹介してくれた。それが栃木皮革、後の栃木レザーとなる会社だった。

工場へ案内され、目の前に映った光景に驚いた。うわっ、こんな世界あるの?物だらけで、すごい匂い。えらいとこに来てしまった・・・。

最初に配属された二課で、身も心も慣れないなか、1日200頭400枚をさばかなければならず。毎日が同じことのくり返し。しんどかった。

革づくりのなかで、担当したのは伸ばしの工程。革の精度は下地9割。美味しい料理も下ごしらえ9割と言われるけど、一番大事なシタバで経験を積ませてもらった。3年ほど経ったある日、当時の工場長から声をかけられた。

「革のこと、もっと勉強してみないか?」

「他を見てこい」という上司の勧めで、姫路の工場に2ヵ月ほど修業に。タンニンなめしも色んなやり方があって、市場に出回っている9割はクロームなめしだということも、その時、知った。

修業を終え戻ると、研究開発の仕事が待っていた。2人しかいない部署で、新しい革の開発や、染色の色だしを試す。革をのばす、という工程しか経験していない自分が、今度は革をつくる側になる。ステージが上がった気がした。

思えば、ここから、自分の革人生が始まった。

10月17日Vol.004:配信
連載:工場長インタビュー(毎週月・火・水配信)
第2話_三柴康孝 取締役 工場長

革の個性を知る

研究開発は一筋縄ではいかない。太鼓を回して色をつけたり、油を入れて、風合いを追求したりする日々がはじまった。

もっと、やわらかくならないか、
もっとしぼしぼな風合いを出せないか、

開発に欠かせないのは薬品。ここで、はじめて出入りの薬品メーカーと接点を持つようになった。担当者に相談しながら、失敗を積み重ね、大事なことも経験した。

それは、説明書に書いてある通りにはいかない、ということ。例えば、革を堅くしたい時は、堅くなる薬品を入れるのだが、何度やっても変化がわからない。メーカーの担当者に聞けば、堅くするには、革の隙間に薬品を入れて固めるんだという。

うちの革は槽につけて鞣していることから密度が高い。そこにいくら薬品を入れても、入る余地はない。逆に、柔らかくしたい時は、油の量を仕様用途に書いてあるより、かなり多めに入れると持ち味が際だった。

つまり、うちの革は薬品の使用書通りにやっても効かない。それだけ、個性が強いから。そんな経験をしながら、どんどん革の奥深い世界に引きこまれていった。

さぁ、これから!

さらに革の良さを引き出していこうと、力が入ったところで、思いも寄らぬ事態に巻き込まれてしまう。(明日へ続く)

10月18日Vol.005:配信
連載:工場長インタビュー(毎週月・火・水配信)
第3話_三柴康孝 取締役 工場長

何が起こったの!

「会社の経営が立ち行かなくなった」
突然、告げられたこの一言。今でもその光景は脳裏に焼き付いている。

日本の産業再生のために、2003年4月に発足した産業再生機構。化粧品のカネボウの再建が、産業再生機構に託されたことで、多くの人がその存在を知った時代。うちにもその産業再生機構がやってきた。栃木皮革の山本専務が社長となり、栃木レザーとして立て直しがはじまった。

しかし、給料の遅延や、将来に不安を感じ退職する人もいて、社内は大混乱。さらに、機構の指導で、在庫管理から、原価計算まですべてが厳しく見直されることになった。

原皮の戻し方、どんな薬品を使っているのか、どんな工程があるのか・・・現場全体を把握しているのは私と上司だけ。その2人で再生機構の対応を任された。

会議は、夜の10時くらいからスタートする。日頃接しない金融、会計、法務、経営などの専門家から厳しい質問が投げかけられ、「どうすれば良くなるのか」と、丁々発止のやりとりが続く。

毎日のように追い込まれた。上司はそのストレスで病んでしまい、結局、会社を去ってしまった。

20代前半の若造の自分は、その急展開にしがみついているのが精一杯。これから、どうすればいいのか。自分の道を見失いそうになっていた。

そんなどん底にいる自分に、手を差し伸べてくれた人がいた。ハシモト産業の橋本皎会長(当時は社長)であった。(次回は、来週月曜日の配信)

10月23日Vol.006:配信
連載:工場長インタビュー
第4話_三柴康孝 取締役 工場長

おわり、はじまる

今でも忘れられない光景がある。会社が経営危機に見舞われ、先を見失いながらも、同期と2人で大阪のハシモト産業に向かった日のことだった。

事務所に到着すると、当時社長だった橋本皎会長は、自分たちを待っていたかのように、「おまえ、革を売ってこい。売れるまで帰ってくるな」と声をあげた。青木さんなどハシモト産業の主だった人たちが、1階の応接室に招集され、「おまえら、なんとしても栃木レザーを助けたってくれ」と、大号令がかけられた。そして橋本会長は、もう一度自分たちにこう向けた。

「お前ら二人で、栃木レザーを背負ってけ」

気持を奮い立たされ、思わず、涙があふれ出た。プレッシャーもあった。革が好きだったわけでもなく、夢を持って会社に入ったわけでもなく、しかも、入社して2、3年しか経っていない二十歳そこそこの若造に、橋本会長は真剣に、ずっと向き合って、語りかけてくれた。

そこから、全力で会社を守らなければと同期と2人、がむしゃらに突っ走った。どうすれば良くなるのか、そのことだけを考えて。答えもなければ、お手本もない。支えになったのは、「おまえらが背負ってやれや」という橋本会長の一言だけ。ありがたかった。

会社再建に要したのは、2年半くらいだっただろうか。産業再生機構の人から、3年はかかると言われていたが、ハシモト産業さんや業界の助けをかりて、少し早く立て直すことができた。

当時の人は、今、ほとんど残っていない。あの日々を知る人間も、もう、いない。結局、一緒に戦った同期もやめてしまった。主張する人、仕事ができる人間ほど会社をやめた。みんなが去ってからが、栃木レザーの本当のはじまり。静かに消えゆく光のなかで、新たな希望のかたちが生まれた。それが、今の栃木レザーだ。(続きは明日の火曜日に配信)

10月24日Vol.007:配信
連載:工場長インタビュー
第5話_三柴康孝 取締役 工場長

自分で考える、仲間と考える

会社の再生で、工場も変わった。それまでは、工場長が言うことが全て。上司に言われたことに疑問も持たず、ひたすら作業をこなしていればそれでよかった。現場移動も交流もない。だから、現場ごとの壁は高く、鞣した革がどうなっているのかなんて、気にするやつも、口に出すやつもいなかった。

そうなると、誰も考えることをしない。

当時は、自分もそうだった。それが、突然の会社の危機に遭遇し、再建のメンバーの1人となって、それまで全く聞いたこともなかった言葉が飛び交うなかで、「会議の議事録をとれ」と言われ、使ったことのないパソコンを渡された。

議事録?パコソン?何、それ・・・

頭の中は真っ白。困った、困り果てたから、死に物狂いで考えた。会社も、経営危機から脱するために、全力で動いた。人間は、本当に困らないと何も考えないのかもしれない。

振り返れば、考える体質になったことが、一番大きな変化だった。昔は、他の工程を「別の島」と言っていた。自分が入った時も、仕上げの工程は関係ない、という認識からはじまった。だから、それではダメ。同世代で集まり、色んな意見を交わし、そこを変えようと。

今では、下場で鞣した革がどうなっているのか、仕上げを見に行くようになり、そこで改善点も話し合うようになった。興味をもって、みんなが自由に行き来すると、皮をちゃんと革として見られるようになった。

当時の上司たちが会社を去ったからこそ、チームとして強くなろうという意識が高まったのかも知れない。それが、単なるものづくりから、価値を生み出すことへつながっていく。

10月25日Vol.008:配信
連載:工場長インタビュー
第6話_三柴康孝 取締役 工場長

どこにもないもの

今、思うこと。それは、栃木レザーの定番をつくること。
 
うちは、受け身でのものづくりがベース。お客さんのための技術開発であり、お客さんの定番をたくさんつくってきた。でも、どこか似たり寄ったり。だから、どこにもない栃木レザーの定番を開発したい。nogakeがその第一歩で、あの革はどこにもない。

最近、従業員でものづくりを考えるプロジェクトをスタートさせた。生産性を上げるためのものづくりではなく、価値をつくる。若手5人が手を上げてくれた。自分たちで生み出す新しいものを、見てみたい。その経験は、お客さんの定番開発の価値向上にもつながるはず。
 
 
考えてみれば、人生は不思議なもの。革にまるで興味がなかったのに、今の自分は革が中心の生活。一つ、後悔があるとすれば、留学のチャンスを逃したこと。
 
タンニン鞣しの発祥の地でもあるイギリスに、全世界からタンナーさんや革に携わる人たちが集まる学校がある。「そこで勉強してみないか?」と、入社数年の自分に声をかけてくれた上司がいた。聞けば、2年か3年あるという。まだ遊びたい年頃で、とてもそんな覚悟は持てなかった。
 
もし、イギリスに行っていたら、とっくに栃木レザーの定番も誕生していたかな。でも、あの頃はそれだけのことを吸収できる土台はなかったであろう。日本にいたから、二度と経験できない再生に携わった。それが、自分にとって最大の成長の機会だった思う。
 
今は人を育てる立場。可能性のある人を、どうやって外の世界に出してあげればいいのか、それが課題。厳しくするだけでも、甘くするだけでもだめ。正直、辞められるのは怖いけど、それでも、外に出る機会をつくって色んな経験をしてもらいたい。自分がそうだったように。